先祖から頂いた宝物を次世代へ。沖縄の伝統着物「琉装」の伝道師

先祖から頂いた宝物を次世代へ。沖縄の伝統着物「琉装」の伝道師

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歴史文化

初回投稿日:2024.07.08
 最終更新日:2024.09.11

最終更新日:2024.09.11

先祖から頂いた宝物を次世代へ。沖縄の伝統着物「琉装」の伝道師 クリップする

琉球王国時代からの伝統文化が残る沖縄。
その中の一つである、沖縄の伝統的な着物「琉装(りゅうそう」をご存じですか?
“琉装”とは、その名のとおり、琉球の装いという意味。琉球王朝時代に、王族から庶民まで、さまざまな身分の人たちが身につけていた着物や着方のことを指します。
そんな琉装の文化を次世代へ残したいと活動しているのが、那覇市の国際通りで琉装レンタルのお店を営む石川真理さんです。

しまんちゅ旅はじめました

京都で染織を学び、東京で舞台衣装を学んだ修行時代

たくさん並ぶ沖縄の着物

真理さんの制作した「琉装」で首里の街歩き&ランチが出来る体験はこちら

琉装には、暑い沖縄でも、普段着として使える優れた機能性がある。そして、日常のファッションに取り入れたくなる素敵なデザイン性がある——。そんなふうに、琉装に魅了され、魅力を伝え続けている真理さん。実は、十代の頃は、ファッションデザイナーになる夢を抱いていたのだそう。
 
進路について父親に相談したとき、その夢を伝えると「素材を勉強することが後々、力になるよ」と勧められたことで、首里高校の染織デザイン科へ進学。そこで知った沖縄の伝統的な染色技法「紅型(びんがた)」、そして日本を代表する染織家であり、沖縄文化研究家・鎌倉芳太郎さんの存在によって、沖縄の伝統工芸の世界へ引き込まれていったと言います。

真理さん

「学校の授業で聞いたんです。香川県出身の鎌倉芳太郎さんは、教師として沖縄に赴任したこと機に、沖縄の伝統文化を調査・研究されるようになって、のちに紅型の技術を継承され人間国宝に認定された、と。そして、大正時代には、首里城正殿の取り壊しを阻止しようと尽力されたこと、先生が残してくださった伝統工芸の貴重な記録や収集資料が、戦後の復興にものすごく役立てられたこと。この話にとっても感動して、私も“沖縄のために何かしたい”と考えるようになりました。それから、まずは芸大(沖縄県立芸術大学)に入って、紅型の技術を高めて、ゆくゆくは人間国宝に! と、新たな夢を抱くようになるわけですが、芸大の受験に3度失敗しまして。夢というのは、なかなか思い通りにいかないものですね(笑)。県外の染織について学んでみようと思い、京都の染織学校に進学しました。そこでの経験はとっても新鮮でしたね。丹後ちりめんや友禅、西陣織のこと、沖縄の手織りとは違う機械の機織りのこと、日本の着物の土台を勉強できました」
 
卒業後は、「布の勉強より、形の勉強がしたい」と、東京へ移り住み、日本を代表する演劇集団「劇団四季」の衣装部へ就職。独立後も、フリーランスとしてミュージカルやオペラなどの舞台衣装の仕事を続け、能や歌舞伎など、本州の伝統芸能の衣装について学ぶ機会も得ていったと言います。

真理さん

「いろいろな舞台衣装に触れ合いつつ、いつもどこかで思いを巡らせていたのは沖縄の着物のことでした。こっちの着物は琉球舞踊の着物とここが違うな、とか、歌舞伎や能の着物と組踊の着物の違いはどういうところだろう? とか。そのうちに、やっぱり私は琉球のことがやりたい、琉装を伝えていきたいと心が決まって。琉装については、わからないことが多かったんですが、久米島(くめじま)出身の大叔母で、琉球舞踊家の児玉清子が東京に住んでいたので、彼女からすべて教えてもらいました。実は東京でも、沖縄県人会の青年部でエイサーをやっていたり、沖縄の文化を伝えている気持ちはあったんですけど、自分の中で何かが違うな、と。やっぱり沖縄から発信することに意味があると思い、それで2001年12月に帰郷しました」

琉装の文化を残したい!間口を広げるためのレンタルを開始

約14年ぶりに沖縄へ帰り、驚いたのは、琉装のおばあちゃんたちがいなくなっていたこと。沖縄の原風景がなくなってしまった——。そう打ちひしがれたそうです。

生地

「1972年の日本復帰前後、和装を推進する運動がありました。でも当時のおばあちゃんたちは、生まれたときから琉装しか知らないので、周りがなんと言おうと琉装して暮らしていたんです。きっと私たちは、その姿をリアルに見ていた最後の世代。それが、久しぶりに沖縄に帰ってみたら、その光景は絶滅してしまっていた。琉球伝統の素材だけが残って、衣類の形がなくなるなんて変だなって思いました。これは伝えていかなといけない。そう思い、起業準備を始めてから約3年後、お店を開店したんです」
 
開店当初は、紅型や首里織(しゅりおり)、久米島紬(くめじまつむぎ)などで作った着物を販売していましたが、なかなか高級な着物への需要は少なく、作ったけれど売れないという状況が続いたそう。そんな中、民謡唄者の方から、洗濯できるステージ衣装を依頼され、ポリエステル生地で琉装を作ることに。また、ポケットにワンポイントで紅型をあしらうかりゆしウェアなど、カジュアルに伝統工芸を取り入れるデザインの依頼も多くなったことで、「今はまず、琉装の啓蒙活動に力を注ごう」という考えに一転。レンタルを要望するお客様の声が増えてきたのも、ちょうどその頃、2019年のことでした。
 
琉装苑 店内

「買うには高くて手が届かない、でも試しに一度着てみたい。そういう方のために、素材もデザインも現代風に開発したオリジナルの琉装を作りました。軽くて涼しくて着やすい、汚れても洗える、ノーアイロンで着られる化繊素材。まさに今、レンタルしているものです。間口を広げるためには、まず楽しんで頂くことが大切なんですよね。レンタルという形で試しに着て頂いて、琉装に興味を持って好きになって頂いて、最終的には、沖縄の染織物で琉装するようになって頂けたら。そういう気持ちで、日々、琉装の魅力を伝える活動をしています」

先祖から頂いた宝物を次世代へ

琉装

「琉装と一言で言っても、時代、地域、身分によって、色や柄、素材などが区別されます。真理さんが提供しているのは、王族・士族が着ていたとされるドゥジン、カカン、タナシをベースにした礼服。
ドゥジンは胴衣、カカンは巻きスカートのような下裳、タナシは、その上から羽織る単(ひとえ)の表衣。
なぜこの琉装を選んだというと、自分なりの思いがあります。
まず、時代は17~19世紀。本物が現存している衣装を再現したかったので、尚家の国宝の染織が残るこの時代のものを選びました。地域は、私が生まれ育った土地が那覇で、馴染深いので那覇。身分は、自分の家系が士族の末裔なので、ご先祖様方が着ていたものがいいなと思い、那覇の中でも首里、士族の女性たちの衣装に決めました」

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琉装

今回体験した琉装のように、琉球絣(かすり)のドゥジンに紅型のタナシを重ねたり、紅型のドゥジンに琉球絣のタナシを重ねたりと、組み合わせは自在。琉装体験する人の希望や、その人の雰囲気などに合わせて、真理さんがコーディネートしてくれます。

生地

生地

「紅型の柄は、基本的に縁起の良い吉兆文様。琉球絣は、身近なものへの愛おしさを感じる柄が見られます。夜空に浮かぶきれいな水雲や、鳥が美しく飛んでいるところ。昔の人がどんなものを見て表現したのかなと想像すると楽しいし、そこに物語を感じるでしょう?」

生地

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コーディネートの最中、こんなふうに真理さんが貴重な知識を語ってくれるのも大きな魅力。琉装で訪れてみたい場所があれば、沖縄の芸能を鑑賞したいならここ、首里の城下町を巡るならこのコースなど、アドバイスもしてくれます。
 
「よくお客さんに、『真理さん、いとこのねぇねぇ(お姉さん)に似てる』って言われるんです(笑)。仲良しだけど、一線はあるっていう距離感なのかな。『また、沖縄のいとこのねぇねぇに会いに来たよ!』なんて言われたりして。そんなふうに気軽に琉装体験に来て頂けたら嬉しいですね」
 
ふと思い出したように、「これこれ、見せてあげる」と真理さんが羽織って見せてくれた着物。「私のひいおばあちゃんの着物をリメイクしたものなの。100年以上前の琉球絣で、ボロボロになっていたものを縫い合わせて、こうしてドゥジンを作ったんです」。そう話してくれた表情は、ちょっぴり照れくさそうで、でもどこか誇らしげでした。

真理さん

「沖縄で生まれ育った人間として、ご先祖様が大切に残してくださったものを沖縄から世界に発信していきたい。ご先祖様から頂いた宝物を、私の代でしっかり受け継いで次世代につないでいきたいんです」
 
現在は、紅型や首里織、琉球絣で仕立てたドゥジンやタナシもレンタル用に製作中。本物の琉球の素材をまとう琉装は、より歴史の深みを感じる特別な体験となりそうです。

琉装で思いをつなぐ。時代をつなぐ。琉球王国時代から続く歴史に思いを馳せながら、沖縄の旅の思い出を琉装で彩ってみてください。
 

岡部 徳枝

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